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正月の地獄

無闇矢鱈におめでたいムードが漂っている正月、この季節になる度に僕はある苦い記憶を思い出す。このブログを読んでくれている方々は、正月と言えば何を頭に浮かべるだろうか。お雑煮、お年玉、凧揚げ、羽子板等など人それぞれ違った物を浮かべると思うのだけど、僕にとって正月のイメージは“書き初め“だ。

遡る事十数年、小学校の頃の僕は典型的な優等生で鼻につく程勉強が出来、長期休みの宿題は一日で終わせる事もお茶の子さいさいだった。その為、一般的な小学生の間で盛り上がるあるあるネタの様に休みの終盤に宿題に追われる日々を過ごす事も無く、悠々とした長期休みを楽しんでいた。その頃の僕と言えばまさに、人生イージーモード、と言った感じ。当時はその様な定型句は存在しなかったものの、まさに。

しかしそんな調子に乗った小学生だった僕にも毎年ある試練が待ち受けていた。それが冬休みの宿題で出される“書き初め”である。書き初めなんてものは完成形が無いのだから時間を掛けようと思えばいくらでも掛ける事が出来るが、逆に適当に書いてしまえば五分足らずで終わる。その為、当然ほとんどの小学生は適当に書いて提出。そこにクオリティの差などほとんど無く、また書き初めが汚いからと言って咎められる事も無い。しかし、我が家は違った。勉強に関する事には一切口出しをしない母が何故か書き初めの事なると異常に張り切るのである。

僕の隣にピッタリとくっついて、母が僕の書き初めを見守る。それが年始の恒例であった。そして少しでも僕の書いた字が気に食わなければ半紙を破られ、仕方なく一度書くとまた破られる、これではいつまで経っても終わらないと思い全身全霊を込めて丁寧に書いてみると、これがまた、破られる、のだ。今年一年の想いを込めて書き初めをしている人の心は得てして澄んでいると思うのだが、書き初めをしている時の小学生の僕は通常小学生が抱えるはずが無い程の闇を抱えていた。“青い空”などと書きながら心には“黒い闇”。正直母親に対してはっきりと“殺すぞ”と思った。大体が何だ書き初めとは、一年に一回しか書かないのだから、初めもクソも無い。初めましてで、さようならだ。

青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空……の黒い文字で白い半紙が次々と染まっていく。もはや言葉の意味など認識出来ない程にひたすらに書き連ねていき意識は宙に溶ける。まるで映画セッションの鬼教師の様に厳しく書き直しを命じる母はもはや狂気の域に達していた。何故母はこんな事を僕に強いるのであろうか。しかも何一つアドバイスを与えてくれたりはしないから書けば書く程上手くなっていく実感も全く無いのだ。それもそのはずだ。母にはまともな書道経験が一切無い。これは練習などでは無く、書道経験が一切無い者が、書道経験が一切無い者にひたすらにヒステリックに書き直しを命じているだけなのである。ただただ怖い事実だ。当時の僕の中では地震雷火事に続くのは習字である。もしかしたらあの世に存在するどの地獄よりも怖いのでないの?

そしてその調子で百枚ぐらい書かされた所で、母からOKサインが出る。「よくやった、褒めてやる」とでも言わん態度で。しかし恐らく一枚目と比べても何の違いもない、なんだったら下手になっている可能性もある。思えば世の中そういう事が沢山ある。良し悪しが分からない上司が時間をかけたものを良し、かけてない物を悪しとして、部下に対してやり直しを何度も命じる。なんだったら良し悪しが分かっている上で面子や固定観念や嫉妬に囚われやり直しを命じている例もある。自分ですら人に何かを頼んで数十分~一日で抜群に良い物を提出された時に、良し悪しより先に「そんな物が良いはずが無い」「手抜きじゃないか?」と思ってしまうかも知れない。その時はひたすらに習字をやらされた記憶を思い出し、フラットな目で判断していきたいと思う。

 

 

ちなみにセッションの様な書き初め特訓の甲斐なく、僕は百人に一人いるかどうかレベルで字が汚いし習字も全くやりません。あけおめーしょん。