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それだけがただ僕らを悩める時にも 未来の世界へ連れてく

人間の興味という物は常に移り変わり、それに伴って都度必要な物も違ってくる。至極当たり前の事を言っているようだけど、当たり前の事ほどついつい忘れがちなのが人間だ。だからいつだって当たり前の事を正しく認識し直すという事が大切なのだ。

勿論、興味が継続している事柄に対して懸命であり続けるのは立派だと思う。自分が美しいと思っている物をきちんと大切に出来る事だって素晴らしい。でも、意識の下ではもう興味が無くなっている事柄や既に自分には必要でなってしまった物に対してこだわり続けるのはただの執着だ。「何かに対して興味を失った事ぐらい気付くに決まっているのだから、自分は無駄な執着心を持たない」と思う人もいるかも知れないけど、人間は意識の上にある事を過信しがちなだけで、意識と無意識は度々食い違うし、脳みそはいつだって嘘をつく。

更に厄介な事に世の中にはその執着心を美しさや純粋性と結びつけてしまう人が多い。確かに心の中で何かに対する尊さを抱いている事は美しい。自分がこれだ!と思った願いを簡単に諦めてしまわない事は純粋かも知れない。でも必要で無くなった物に対する執着に美しさは無いし、本心と齟齬があるのだから純粋とはかけ離れている。更に言うと、執着心を美しさや純粋性と結びつけてしてしまう人は自分をやけに客観的に見ていて「純粋な自分」と不必要に外側に発してしまう事も多い。その個人的な領域をアピールの為に外側に持ち出してしまう態度も純粋とはかけ離れていて台無しだ。そもそも美しさや純粋性をアドバンテージだと思い、それを保つ事を前提に美しいと思う物を大切にしようと思っているのならば順序があべこべであるし、ただの執着が始まっている。その状態に陥ってしまうと、全てが悪い循環を生んでしまう。

でも大切に思っていた物に対して興味を失ったり、今まで必要としてきた事が必要で無くなったりする事に対して、生理的な気持ち悪さや抵抗を抱いてしまうのは理解し難い訳では無い。ただその様な事は日々行われているし、興味を失う事が大事な物を軽視している事とイコールでは無いので別に嘆く事じゃないと僕は思う。

例えば、皆大切だからという理由で四六時中親友の事を頭に浮かべたりしているだろうか。きっと美味しい物を食べている時は目の前の料理に夢中になっているし、映画を観ている時は映像に心を踊らせている事だろう。当たり前の事だけど、その瞬間に親友の事を考えていないからと言って、親友を軽視したり忘れたりしている訳ではない。それがもっと大きな単位で行われているぐらいに思おう。興味が移ろう事は自然な事なので、抵抗を感じなくてもいい。

そしてまた自然に再び必要となって触れる事があれば、それはそれで良い。そうして何度も同じ場所に戻って来ては触れる事が不定の間隔で数年数十年単位と続いているのが、表面的に見て興味が継続している物や関係が続いている人なのだろう。勿論、詳細に言えば自然に何度も同じ場所に戻ってくる事があるだけで、執着していたり、一時も離れていなかったり訳ではない(心のどこかには在り続けているかも知れないけど)。でも、だからこそずっと大事な物、大事な瞬間、大事な関係はそのまま保つ事が出来る。

例え話になるけど、アクションゲームでよく”一定時間乗り続けていると崩れてくる足場”という物が出てくる。僕は興味の対象はその足場に近い様に感じる。どれだけ大切な物でも執着し続けてしまうのであれば、それは病、或いは依存に近く、必ずいつか崩れて足場は無くなってしまう。適度に興味を移ろわせる事も大切なのだ。

だからどんな物事にも執着はせず、今や過去を大事にしながら自然に離れたり触れたりする事に抵抗を持たないよう渡り歩いていこう。

ただ間違って欲しくないのは、美しいと思う物を大切に出来なかったり、使い捨てのような感覚で物や人を扱ったりするのは最悪だという事だ。だから間違わない為にも、自分が本当に大事だと思う物をきちんと見極めて、短い目や長い目で丁寧に接して欲しい。自分に誠実であり続け、あらゆる物に対して想像力を働かせる事を諦めなければ自然と出来るはず。その中で大事な物と自然に触れ合う事が続いていけば、それはとても幸福な事だ。

故に、ボクは渡り歩いていく感覚を否定せず、美しいと思って生きたい。

 一つの解釈にすぎないが、小沢健二の愛し愛されて生きるのさがたまに渡り歩いて生きる事を肯定する歌に聴こえる事がある。


“とおり雨がコンクリートを染めてゆくのさ
僕らの心の中へも侵みこむようさ
この通りの向こう側 水をはねて誰か走る

夕方に簡単に雨が上がったその後で
お茶でも飲みに行こうなんて電話をかけて
駅からの道を行く 君の住む部屋へと急ぐ

いつだって可笑しいほど誰もが誰か 愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩める時にも 未来の世界へ連れてく

ナーンにも見えない夜空仰向けで見てた
そっと手をのばせば僕らは手をつなげたさ
けどそんな時はすぎて 大人になりずいぶん経つ

ふてくされてばかりの10代をすぎ 分別もついて歳をとり
夢から夢といつも醒めぬまま 僕らは未来の世界へ駆けてく

月が輝く夜空が待ってる夕べさ
突然ほんのちょっと誰かに会いたくなるのさ
そんな言い訳を用意して 君の住む部屋へと急ぐ Uh ah

“家族や友人たちと 並木道を歩くように 曲がり角を曲るように
僕らは何処へ行くのだろうかと 何度も口に出してみたり
熱心に考え 深夜に恋人のことを思って
誰かのために祈るような そんな気にもなるのかなんて考えたりするけど"

10年前の僕らは胸をいためて「いとしのエリー」なんて聴いてた
ふぞろいな心は まだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ
まぶしげに きっと彼女はまつげをふせて
ほんのちょっと息をきらして 走って降りてくる
大きな川を渡る橋が見える場所を歩く“

 

きっと、どんな人でも愛し愛されて生きているから離れていく事も恐れなくていいのだ。勿論、愛し愛されると言っても人のみを対象にした話ではない。出来るだけ多くの人が健やかに生き、大切な物に愛を持って接する事が出来るように祈っている。