テレビで芸人のネタを見て「つまらない」と切り捨てたり、SNSのプロフィールに「/」で区切って好きなものを羅列したり、彼氏のスペックを自慢したりする君が見つめなおすべき“個性”と“意識”

全部読んでくれた方が理解しやすいけど、あまりにも長いので↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑まで読み飛ばしていいです

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個性って一体なんだろう。思春期になると嫌でも他人との違いや類似点を認識させられて、自分は一体何者なのか、その個性と凡庸さに苦しめられる。自分の内側の世界で格闘するだけでも苦しいのに、外とも関わり続けなければいけないから、ますます苦しい。今は“個性を尊重した教育”をしているなんて言うけど、小中高学校みたいな狭いコミュニティ独特の同調圧力がかかる中で『個性を獲得しろ!』とだけ言われても辛くなるだけだろう。そうして人々は個性を獲得する事を諦めていき、凡庸さだけが残っていく、そうして個性の意味がますます分からないまま大人になってゆく。

しかし、個性を持つ事は絶対に諦めてはいけない。怒られるかも知れないけど“個性を持っていない人間の人生は面白くないから”だ。ここまで書いてもう手に取る様に分かる『価値観の違いがあるだろ!』『それぞれ折り合いをつけて生きているのだから失礼だろ!』『個性や才能が無い人間の気持ちも考えろ!』という反論。でも“個性を持っていない人間の人生は面白くない”というのは“美味しい物を食べられたら嬉しい”“温かい布団で眠れたら気持ちいい”くらい当たり前の事なのです。だって自分の個性をきちんと持っていたら自分のやりたい事は出来、手に入れたい物は手に入れられ、周りにもどんどん面白い物・面白い人(それこそ主観や個人的な価値観的の上で)が集まってくるのだから。逆を考えたらより分かりやすいかもしれない。やりたい事も出来ず、手に入れたい物も手に入らず、周りにつまらない人や嫌いな人が集まってくるのとどっちが楽しいのか。

それに『個性や才能が無い』と思い込んで逃げるのは楽だけど、辛くても戦い続けている人の方が圧倒的に面白い。勿論ダメな人も面白いけど、ダメである面白さだって世の中に揉まれて揉まれて、それでもダメで在り続けた結果、最後の最後に残った物だ。「俺たちダメ人間で~す」みたいな芸風で売れているミュージシャンだって自分と必死で向き合った上で、曲を作って発表している。蛭子さんなんてまともな人間には到底真似出来ないレベルで自分を貫いているぞ。それに比べて、例えば所謂“真面目系クズ”的な、ただ単に楽な上に同調する方向にダメになってそれを個性と勘違いしている人は個性的でもなければちっとも面白くない。

かと言って、個性を身につける事は大抵の人にとって容易ではない。個性を持って生きていたらそれがどうしても許せない世の中の人達に“協調”や“倫理”という武器や“調子に乗っている”“勘違いするな”という難癖で不条理に殴られるし、弱いフリをしなければ誰にも慰めても庇っても貰えず寧ろ『あいつは強い人だから』と何でもしていい(今回のベッキーの件なんてその最たる物ですね)と思われるし、自分の強い部分も弱い部分も真剣に見つめなければいけないから絶対に辛い事も沢山ある。その中で精神を潰されてしまう人も多い。

でも少しずつ自分が本当に欲しい物や能力を手に入れられるから絶対に楽しさは得られる。“楽”と“楽しい”は全く違うのだ。才能なんて無くとも大丈夫、この世の中で君が必死で戦う姿は充分に個性的。大体そんなやつらに殴られたって傷つく必要はない。やたらと協調や倫理という武器で殴ってきたり、強い人を攻撃してきたりするやつをよく観察してみたら『バイトつれ~』とか友達や恋人の愚痴とかしか言ってないつまらない人だから全く好かれる必要は無いし、そもそもああいう人達の意見には何の価値も無い。あれは明日も明後日もただバイトつれ~だけの生き物だから。あいつらにならない為にますます個性を獲得しようってなもの。そうして個性を獲得できたら、今度は個性を獲得していく上で世間との軋轢を感じ、辛い思いしている人達をきちんと認めていって良い連鎖を作っていこう。

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上手に個性を獲得していく為、個性を他人に表現していく為には意識的であった方が良い様に思える。それは個性的な人を見て気付いた事ではなく、何気なく日常を過ごして個性を失ってる人を見て気付いた事。中でも特に身近で意識すべきだと思った二点を紹介させていただく。

 

1.「◯◯つまらない」「◯◯ブサイク」「◯◯は消える」「◯◯ゴリ押し」などの一言で他人を切り捨てない

食卓でご飯を囲んでいる時、テレビを見ながらSNSをしている時、匿名で気に食わない芸能人に喧嘩を売る時、必ずと言っていい程この類の言葉を発する人がいる。特に流行りの芸人に対して言っている光景は誰もが一度は目にした事があるだろう。しかし、少し待って欲しい。(最初ちょっと待って欲しいって書いていたけど、某芸人を連想させて嫌だなと思って書き直した)

お前のその「◯◯つまらない」という発言や話題も相当面白くないぞ

ボクシングと一緒で他人を殴っている時ほど人間ボディががら空きになるものだ。芸能人を一言で切り捨てて勝ち誇っている瞬間、その人はありきたりで面白くない人になってしまう。大体「◯◯つまらない」という話題と、面白い話題が同時に浮かんだとしたらほぼ全員が面白い話題を話しません?つまり「◯◯つまらない」と言い続けている人間は面白い話題がずっと思い浮かんでいない状態にあるという事。面白味がある訳が無い。更にそう指摘すると彼らは必ずこう言い出す。

 「俺…素人だから…プロとは違うじゃん…」

その通り、あなたは表現のプロではない。でも素人でも全く面白くないという事実は変えようが無いし、あなたは周りの人に「こいつ面白くないな」と思われている。プロだろうが、アマチュアだろうがそれだけは絶対に避けられない。あなたは他人の評価から逃げられないのだ。異性の容姿に対してとやかく言う人も多いけど(そもそもこれ自体が下品で最低でみっともない行為だと思う)、自分だけ一方的に査定出来ると思っている容姿だってそう。

プロではないという逃げ方は誰かに評価され続けている当事者である意識が低すぎる。誰もが意見を世界に発信でき、いつでも誰かに評価されている時代、この一億総表現者時代に自分は消費だけをし続けられる人間だと思い込んでいるのは甘々。

そもそもこの時代じゃなくとも、例えば職場で学校で喫茶店で誰かと話す事全てが表現だ。常に気を張っているべきという訳では無いし、気を抜いて話す場も愚痴る場も必要。でもいつも「◯◯はダメ」の一言で何かを切り捨てていたり、愚痴ばかり言っていたり人をあなたは面白いと思うだろうか?

「批判だって表現だろ」、確かにそうだ。でも、批判も表現である限り、ある程度のクオリティが必要で、その為には自分の意見をひたすらに突き詰める必要がある。あなたのはただのストレス解消に芸能人を使うみっともない行為で、到底、表現と言える様な物ではない。

ここまで外に発する事ばかり話したようだが、外を意識する事で自分の内面も意識し直すきっかけになる。それに個人的行為に思える創作物との触れ合いだって、他者を通じて自分を見つめなおす行為である事がしばしば。他者への意識も同じである。

まずあなたが自分なりに突き詰めて、面白い話題を作り上げられる様に意識する事が大事。それが否定的な意見でもある程度クオリティがあれば、有益な意見にもなる。つまり、他人を一言で切り捨てないという事によって

・個性的で面白い話題を作り出す能力が身につく

・自分も他人に対して表現をしているという自覚が生まれる

・自分なりに意見を生み出そうとする中で、内側への意識も強まり、更に個性的になっていく

この様なメリットがある。勿論芸能人に対してだけでなく、日常の中で出会う人や物や創作物に対して、自分のフィルターを通して突き詰め、個性を育んでいく事が大事だ。そして自分は消費だけを出来る立場ではないという事を意識する事によって、個性を外側に発する能力も高まる。内外、両側に個性が伸びていくのだ。とにかく肯定にせよ、否定にせよあらゆる物に対して誠実である事が大事になってくる。

 

2.何かを好きであること自体は個性として弱いと認識する事

根本的には同じ話だ。“突き詰め”と“表現をする意識”が圧倒的に足りない。

具体例を上げると分かりやすいだろう。自分の説明をするツイッターのプロフィールの場で「/」で区切って好きな物をひたすら並べている人(これには共通の趣味の人を見つけやすいメリットがあるけど)、音楽や漫画や映画や小説を喋り続ける人、個性的な人の表面の表面を真似してアバンギャルドさを演出している人、道具みたいに彼氏のスペックを自慢する女の子、残念だけどそれはあなたの個性ではない。何かを好きである事自体が個性だと思っている人が多いけど、それはその人のアイデンティティでも無ければ、説明にもならないのだ。

そういう人思い浮かべる時、あなたはどう思うだろうか。「◯◯のファンの人だな」「◯◯に憧れている人だな」「◯◯の女だな」それで終わり。印象としてかなり弱いし、あくまで中心はその◯◯であってあなたではない。正直面白味に欠ける。勿論、何かを好きである事は素晴らしい事だけど、自分のアイデンティティや個性を他人に依存してはいけない。もし仮にそれが個性として成り立つのであれば一番個性的な人はただ知識を覚えていっただけのオタクになってしまう。多趣味でも凄まじく中身が薄い人いる。

ただ好きな物を圧倒的に突き詰める事が出来たら、何かを好きな事だって個性に変わる。何かと真剣に向き合う事で、他者を通じて自分を見つめる事が出来、内面の個を強めるのだ。それにはやはり受け売りではなく自分なりの解釈で物事を誠実に突き詰めることが大事。それに自分のフィルターを上手く通せると、好きである事を外に発する時にも内面性が強烈に出る。後は表現する技術だと思う。どれだけ好きでも「◯◯が好きです」ではダメ。内へも外へも圧倒的な愛と熱量と技術が必要になる。

例えばアメトーーク!の◯◯大好き芸人(あれは元々個性が理解されている人がやっているから意味があるというのもあるけど)なんて内も外も完璧。BUMP OF CHICKENのアルエも「綾波レイが好きすぎて曲作っちゃった」ってこいつマジかよってなるし、圧倒的な個性だ。勿論あそこまで外に発するのが上手くなくとも、自分なりに突き詰めすぎた人は異常で、面白い。

でも全て「好きである事自体」が個性なのでは無く、あくまで自分の中で徹底的に突き詰めたから面白いのだ。

 

以上の二点を意識して生活をするだけでも個性は育まれ、外側に発する能力も身に付いていく。何度も言う様だけど、外を気にするではなく、外を意識する事で、他人を通じて自分を見つめなおすきっかけにもなる。結局全ての物事に対して自分なりに誠実である事、そして常に自分が何かを発しているという意識を持つ事が大事という話に終始する。

 

個性を持とうとすると、周りとの軋轢も沢山生まれ、とてつもなく辛い。でもそこをブレイクスルーすれば味方も増えるし、楽しい事が圧倒的に増えていく。ただ一つ勘違いして欲しくないのは、自分の我を通したり、周りに対して滅茶苦茶な態度を取ったり、嫉妬して攻撃を仕掛けたりする事は個性ではなく“ワガママ”だ。あくまで外に対した優しさや親切心を持ったまま、大事にしている部分を貫いて欲しい。

愛を持った上で個性的に生きましょう。

 

まず、このブログに対する批判も一言で済ませないところからスタートだ。

   

「好きなバンドにお金を落とそう!」という風潮が苦手

タイトルの通り、僕は“好きなバンドが活動を続けられる為に、出来るだけバンドにお金を落とそう”という意見を好ましく思っていない。こういった意見はある程度の人気を獲得したバンドが解散する度に、あちらこちらからまるで鬼の首を取ったようかの様な顔で発せられるのだが、大抵は親切心などではなくただ自己顕示欲を満たす為に簡単に同意して貰える方法を採っているだけに思える。更に自分の意見を肯定する為に必死になってしまい、解散を嘆くライトなファンに対して「お金を落とす程好きじゃなかった癖にいちいち騒ぐな」と攻撃までし始めるから質が悪い。

それでも動機や無駄な攻撃性に目を瞑ったとすれば、ある程度正しい意見なのではないかと考える人も多いと思う。が、少し待って欲しい。勿論違法な手段によって音源を入手したりする事は悪とされるべきであるし、ファンが金銭の流れをある程度知っておく事はアーティストとファン双方にメリットがある。しかし、果たして“出来るだけお金を落とす事”は他人に推奨、もっと言うと強制する様な空気を作り出して良い事だろうか。

僕はファンがもっと気軽に作品の良し悪しのみでCDやグッズを購入するかどうかを決める事が出来る空気を作っていくべきだと思う。それはファンが純粋に音楽を楽しむ為に、アーティストがファンに対して悪い甘えを抱かない為に重要な事だ。

もしアーティストの関連商品の購入に“生活や活動の為”という要素が加わってしまえば、ファンは純粋に作品のクオリティのみに対してお金を支払っている訳ではなくなる。CDやグッズは手元に残るが、アーティストにお金をあげる為に商品を購入する行為へと無意識に一歩近づいていく。度が過ぎていけば、もはや“ヒモバンドマンにお金をあげて養っている女の子”と変わりがないではないか。

まだファンが善良な気持ちで“好きなバンドが生活出来る為にCDを買うべき、グッズを買うべき”と言っているのであればまだ良いが、最近では“グッズはバンド活動の為の大切な資金源”というアピールをするバンドが増えている。別にグッズのクオリティが高ければほっといても勝手に購入するのだから、この様なアピールはみっともない。もはや「金をくれ」と叫んでいる様な物だ(コミックバンドが言ってたら面白いけど)。

第一この類のアピールをするバンドに限ってグッズに関してのこだわりがあまりあるとは思えない。メンバーがふざけて描いた様な絵をグッズにしたり、ジャケットをそのままコピーアンドペーストしたり、まるで思考停止の様に流行りのイラストレーターに依頼した様な物ばかりだ。ジャケットなどCDに付属するものに関してはとにかく作品の一部と主張する割にはグッズに関してこだわりが無い(なんだったら本人達が一切関わっておらずスタッフ側に投げっぱなしである事も多いと思う)のは萎える。クリエイターとしてのこだわりがあるのならば自分達が良いと思うデザイナーやイラストレーターをしっかり選別して依頼し、プライドを持ってある程度のクオリティのグッズを作るべきだ。はっきり言ってほとんどのバンドTなんてほぼファン間の同調圧力で売れている様な物で、クオリティ自体は酷い物が多い。バンドマンやバンドファンはアイドルが売りがちな握手券・投票券付きやジャケット違いのCDなどをいちいち批判するけど、商品や権利自体に価値があり、きちんと工夫がなされているという意味ではアイドルの方が圧倒的に戦っている。

僕も勿論アーティストには正しく金銭が流れて欲しいと願う一人だし、活動の為にどの様な方法であっても金銭が渡したいという人はCDやグッズを大量に購入しても良い(直接お金を渡したりする事も別に構わない)と思う。ただ基本的にはファン一人一人が純粋な商品のクオリティにのみに対してお金を支払うのが健康的だし、ある方向へのクオリティを高めれば黙っていてもファンは勝手にCD・グッズを購入する。だからアーティスト側が真っ先にする事は「活動の資金源になるので買ってくれ」というみっともない発言ではなく、CDやグッズのクオリティを高める事だ。

もう一度改めて書いておくと違法な手段によって音源を入手する事は悪とされるべき(対価をきちんと支払う事は双方にとって大事)であるしファンが金銭の流れはある程度知っておくに越した事はない。勿論その上でお金を落とすのは個人の自由。

でもファンがアーティストの生活まで無理に意識させられてCDやグッズを購入している状態は不健康だし、作品を楽しむ上で邪魔になりかねないので活動の為にお金を落とす事を強制したり、活動休止・解散という物を掲げて脅したりする様な態度はあたかも正論の様で胡散臭く、あまり好ましくないと思い綴りました。

 

   

正月の地獄

無闇矢鱈におめでたいムードが漂っている正月、この季節になる度に僕はある苦い記憶を思い出す。このブログを読んでくれている方々は、正月と言えば何を頭に浮かべるだろうか。お雑煮、お年玉、凧揚げ、羽子板等など人それぞれ違った物を浮かべると思うのだけど、僕にとって正月のイメージは“書き初め“だ。

遡る事十数年、小学校の頃の僕は典型的な優等生で鼻につく程勉強が出来、長期休みの宿題は一日で終わせる事もお茶の子さいさいだった。その為、一般的な小学生の間で盛り上がるあるあるネタの様に休みの終盤に宿題に追われる日々を過ごす事も無く、悠々とした長期休みを楽しんでいた。その頃の僕と言えばまさに、人生イージーモード、と言った感じ。当時はその様な定型句は存在しなかったものの、まさに。

しかしそんな調子に乗った小学生だった僕にも毎年ある試練が待ち受けていた。それが冬休みの宿題で出される“書き初め”である。書き初めなんてものは完成形が無いのだから時間を掛けようと思えばいくらでも掛ける事が出来るが、逆に適当に書いてしまえば五分足らずで終わる。その為、当然ほとんどの小学生は適当に書いて提出。そこにクオリティの差などほとんど無く、また書き初めが汚いからと言って咎められる事も無い。しかし、我が家は違った。勉強に関する事には一切口出しをしない母が何故か書き初めの事なると異常に張り切るのである。

僕の隣にピッタリとくっついて、母が僕の書き初めを見守る。それが年始の恒例であった。そして少しでも僕の書いた字が気に食わなければ半紙を破られ、仕方なく一度書くとまた破られる、これではいつまで経っても終わらないと思い全身全霊を込めて丁寧に書いてみると、これがまた、破られる、のだ。今年一年の想いを込めて書き初めをしている人の心は得てして澄んでいると思うのだが、書き初めをしている時の小学生の僕は通常小学生が抱えるはずが無い程の闇を抱えていた。“青い空”などと書きながら心には“黒い闇”。正直母親に対してはっきりと“殺すぞ”と思った。大体が何だ書き初めとは、一年に一回しか書かないのだから、初めもクソも無い。初めましてで、さようならだ。

青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空、青い空……の黒い文字で白い半紙が次々と染まっていく。もはや言葉の意味など認識出来ない程にひたすらに書き連ねていき意識は宙に溶ける。まるで映画セッションの鬼教師の様に厳しく書き直しを命じる母はもはや狂気の域に達していた。何故母はこんな事を僕に強いるのであろうか。しかも何一つアドバイスを与えてくれたりはしないから書けば書く程上手くなっていく実感も全く無いのだ。それもそのはずだ。母にはまともな書道経験が一切無い。これは練習などでは無く、書道経験が一切無い者が、書道経験が一切無い者にひたすらにヒステリックに書き直しを命じているだけなのである。ただただ怖い事実だ。当時の僕の中では地震雷火事に続くのは習字である。もしかしたらあの世に存在するどの地獄よりも怖いのでないの?

そしてその調子で百枚ぐらい書かされた所で、母からOKサインが出る。「よくやった、褒めてやる」とでも言わん態度で。しかし恐らく一枚目と比べても何の違いもない、なんだったら下手になっている可能性もある。思えば世の中そういう事が沢山ある。良し悪しが分からない上司が時間をかけたものを良し、かけてない物を悪しとして、部下に対してやり直しを何度も命じる。なんだったら良し悪しが分かっている上で面子や固定観念や嫉妬に囚われやり直しを命じている例もある。自分ですら人に何かを頼んで数十分~一日で抜群に良い物を提出された時に、良し悪しより先に「そんな物が良いはずが無い」「手抜きじゃないか?」と思ってしまうかも知れない。その時はひたすらに習字をやらされた記憶を思い出し、フラットな目で判断していきたいと思う。

 

 

ちなみにセッションの様な書き初め特訓の甲斐なく、僕は百人に一人いるかどうかレベルで字が汚いし習字も全くやりません。あけおめーしょん。